この時代に想う テロへの眼差し

スーザン・ソンタグの書いたものは初めて読んだ。シビれた。

この時代に想うテロへの眼差し

この時代に想うテロへの眼差し


書くだけでなく話す人でもあり、活動する人でもある。セルビア人が包囲して砲弾が飛び交うサラエヴォで、蝋燭の明かりを頼りに演劇の公演をやったりする。

村上春樹がこんどエルサレム賞を受賞するとかで、なんで今イスラエルなんだと一部方面で話題になったりしたので、かつて同賞を受賞したことのある人がどういうスピーチをしたのかということで読んだのだが、講演の最初から最後まで陰に陽にイスラエルの軍事行動を批判しまくっている。でも徹頭徹尾、作家の責務と文学の役割について論じているので、やめさせることもできない。きっと演説を聴いているエルサレムの人たちは苦い気持ちだっただろうと思う。
例えばこんな感じ。

おおかたの人々が「平和」という言葉で言わんとしていることは、勝利ではないかと思える。自分たちの側にとっての勝利。だが、ある人々にとっての勝利が「平和」であるなら、その平和は、他の人々にとっては敗北を意味する。

あるいは、次のような。

意見というものの困った点は、私たちはそれに固着しがちだ、ということである。だが、作家が作家として生き生きとしている限り、作家はつねに見ている。しかも、より多くのことを。
何事であれ、そこにはつねに、それ以上のことがある。どんな出来事でも、他にも出来事がある。

そしてスピーチの中でイスラエルの軍事行動を直ちにやめて、入植地を引き払うように要求したりする。
最後の一言が圧巻。

エルサレム賞を受け、感謝している。文学という事業に献身するすべての人々への栄誉として、これを受ける。イスラエルとパレスチナで、個としての声と、複数の真実からなる文学を創造すべく格闘している、全ての作家と読者への敬意とともに、これを受ける。平和の名において、また、傷つき、恐怖に満ちた共同体の和解の名において、この賞を受ける。必然としての平和。必然としての譲歩と新たなる調整。類型の必然としての減衰。対話の必然としての持続。国際ブックフェアの後援によるこの国際的な賞を、何よりも国際的な文芸の共和国に敬意を表する契機として受ける。

参った。拍手するしかない。
村上春樹エルサレム賞(正式な名称は「社会における個人の自由のためのエルサレム賞」)を受賞することについては、否定的な意見も数多く出ているようだけど、文学への評価はきちんと受け取って、戦争については創作の中でコミットメントとして示すことで、それはいいんじゃないかと、ソンタグのスピーチを読んだあとも僕の気持ちは変わらなかった。というかむしろ補強された。否定的な意見を持つ人たちにも、ぜひこのスピーチを、ちゃんと全文読んで欲しいと思う。ソンタグの行動だけでなく、イスラエルに対して批判的な主張のおいしいところだけではなく、ちゃんと全文読んで欲しいと思う。できればこの本を全部読んで欲しい。重要なのは、ソンタグは軍事行動そのものを否定していないということだ。むしろ、軍事行動が必要な場合も現実としてある、と主張している。大江健三郎との往復書簡のなかで、彼女はこう書いている。

NATOセルビア上空で軍事行動を展開していた期間、たまたま私は南イタリアの都市バリに長期滞在していました。アドリア海を隔ててアルバニアに面している町です。そのバリでも数回の反戦デモで、同じスローガンの看板を目にしました。「戦争をやめよ。ジェノサイドをやめよ」。抗議していた善意の人々は、これら二つのアピールは、あわせれば同じ主張になると考えていたに相違ありません。しかし、そうはならないのです。私は、こう考えざるを得ませんでした。誰が戦争を起こしているのか、誰がジェノサイドに手を染めているのか。戦争停止によって、セルビア側によるジェノサイドがまんまと続けられるだけの結果になってしまったら…。
かりにNATOが戦争を否定していたとしたら、それはコソヴォの人々にとって、どういう事態を意味していたでしょう−−助けは来ない、ということです。ボスニアの人々がセルビアクロアチアの侵略者の攻撃にさらされていた−−殺され、爆撃されていた−−三年のあいだ、結局NATOが彼らに伝えたのは、助けないということだったのです。
何事かをしない、つまり無為。それもまた行動なのです。

イスラエルがガザの一般市民を巻き込んで猛烈な爆撃をやっている中で、一方ハマスは、攻撃拠点が爆撃されるのを承知の上で、ガザ市内を移動しながらミサイルを打って、またすぐ移動する。そしてそこへ爆撃がやってくる。一般市民が巻き添えになることを、ハマスは自分たちのプロパガンダに利用しているのだ。
そう、どんな出来事でも、他にも出来事があるのだ。私たちはそれを忘れてはいけない。ユダヤとアラブの紆余曲折は、今に始まったことではなく、遠く聖書の時代にまで遡っての因縁なのだ。