こんなにはっきり覚えていることはとても珍しい

夢を見た。

墜落しそうなジェット飛行機に乗って湖の上を飛んでいる。
湖岸の山肌にぶつかりそうー!と思っていると、そこにはなぜか冬山装備の自衛隊員たちがいて、飛行機に気づいて逃げようとしている。
急斜面を駆け上がって逃げていく人(なんで湖岸の方へ逃げないの?)、わずかな窪みに体を投げ出して伏せる人、そういうのをなぜか間近に見ているので、もう落ちるんだなーと思う。
しかし飛行機は急にエンジンの回転数を上げてそこを通り過ぎ、隊員たちは難を逃れるわけだが飛行機は機首を上げて山を越えたところで完全にバランスを失う。
飛行機はキリモミ状態になってぐるぐる回り、僕と隣の人は、あーぐるぐる回ってるねー、もう完全にダメだねー、と言いながら天井を見上げている。ぐるぐる。気がつくと僕はなぜかビデオカメラでその様子を撮影している。
ビデオカメラでキリモミ状態とかわからんでしょ、自分も回ってるのに、と思ったところで意識が途切れて、次の瞬間、どこだかわからない小部屋の中で目を覚ました。
そうか、意識が途切れると次の瞬間はもう意識が戻ってるんだ、というかあれ、俺生きてる、ここはどこ?と思う。飛行機にこんな広いスペースあったっけ?
隣の人と二人でそのスペースにいて、隣の人は完全に気を失っていて生死も定かではないのだけど、ほとんどそのことは気にかけず、やばい、航空燃料に火がついたら死んでしまう、逃げよう!と思って、運よく明るい方に横長のハッチのようなものがあるのを見つけて押し開けるとそこがちょうど地面になっていて(なんというご都合主義!)外に出られる!という時に
「あ、ビデオカメラ持っていかないと」
と思って、明らかにガス臭い中をいったん部屋に戻り、転がっていたビデオカメラをつかんで、でも隣の人は放置して自分だけ外に出ると、外は何か研究施設のようなベージュの建物の隣で、何で俺こんなとこにいるの?飛行機はどうなったの?

というところで目が覚めた。なんだそれ。

ドライブ・マイ・カー

 

文藝春秋 2013年 12月号 [雑誌]

文藝春秋 2013年 12月号 [雑誌]

 

 話の上面は「妻が生前に浮気していた理由が理解できずに引きずって苦しむ男」についての話だが、本題はそこではなく、主人公やその妻や友人(妻の浮気相手)の共通の職業である俳優に引っかけて、「人間は誰と接するときでも少なからず演技しており、全てをさらけ出して理解しあうことなどできない」ということについて書かれている。

主人公は妻が生前何人もの男と寝ていたことの理由が理解できないでいる。妻は長年連れ添った伴侶であり、自分が妻のことを最も理解していたし、全てを理解していたと信じたいし、分からないことがあれば今からでも、例え妻の浮気相手から聞き出してでも、理解したいと思っている。そのため実際に浮気相手の一人と個人的な飲み友達にまでなってしまう。相手に自分には足りない何かがあり、妻がそこに惹かれたのではないかと考えている。しかしその友達付き合いから、相手が人間として、あるいは俳優として、自分より特に優れたところを見出すことができず、いつしかその付き合いすらやめてしまい、俳優としての自分の外面の殻に引きこもってしまう。

もちろん、その飲み友達(浮気相手)が言うとおり、「どれだけ理解しあっているはずの相手であれ、どれだけ愛している相手であれ、他人の心をそっくり覗き込むなんて、それはできない相談」だ。しかし主人公はそれを強く求めている。

そのような姿勢は時として相手を息苦しくさせる。なぜなら人は誰しも、誰の前でも多かれ少なかれ演技しており、全てを相手にさらけ出すことなど決してありえないからだ。例えば、一連のストーリーは主人公から彼の雇われ運転手への打ち明け話として語られるが、心に抱えた秘密をさらけ出したからといって主人公と運転手が親しくなるわけではない。どれだけ深く他人の心をのぞき見たからといって、そのことが他人との関係を完全なものにしてくれるわけではないのだ。そこを履き違えると、自分だけでなく相手をも苦しめることになる。例えば夫婦の関係にしても、夫が求めているものと妻が求めているものは少しずつ異なっているはずなのだ。

もしかしたら主人公の妻は、主人公が自分に求めている、そのような「全てを分かり合った関係」を演じ続けることが息苦しくなって、主人公に対する秘密として他の男性と関係を持つことで、演技者としての自分を保とうとしていたのではないかとも思う。一時逃避、あるいはガス抜きのようなルーチンワークとして。

ところで、同じようなことが、「羊をめぐる冒険」の冒頭でも語られていたことを思い出した。

彼女が消えてしまったのは、ある意味では仕方のない出来事であるような気がした。すでに起ってしまったことは起ってしまったことなのだ。我々がこの四年間どれだけうまくやってきたとしても、それはもうたいした問題ではなくなっていた。はぎとられてしまったアルバムと同じことだ。

それと同じように、彼女が僕の友人と長いあいだ定期的に寝ていて、ある日彼のところに転がり込んでしまったとしても、それもやはりたいした問題ではなかった。そういうことは十分起り得ることであり、そしてしばしば現実に起ることであって、彼女がそうなってしまったとしても、何かしら特別なことが起ったという風には僕にはどうしても思えなかった。結局のところ、それは彼女自身の問題なのだ。

(中略)

彼女にとって、僕はすでに失われた人間だった。たとえ彼女が僕をまだいくらか愛していたとしても、それはまた別の問題だった。我々はお互いの役割にあまりにも慣れすぎていたのだ。僕が彼女に与えることができるものはもう何もなかった。彼女にはそれが本能的にわかっていたし、僕には経験的にわかっていた。どちらにしても救いはなかった。 

 こうやって並べてみると、むしろ「羊をめぐる冒険」の主人公のほうが達観しているようにも見えるのは、僕だけではないのではないか。もちろん、達観したからといって救われるわけではないのだけれど。

Thank you in advance

依頼のメールを書いていると、英語のThank you in advance.と同じニュアンスの語彙が欲しくなることがあるのだが、日本語で該当するものが思いつかなくていつもモジモジする。

こういう依頼ができる相手としてあなたがいることにとても感謝しているから、引き受けてくれる前からもう感謝を伝えたい、という長ーい能書きはメールとして冗長すぎる。

だいたい日本語はこういう、相手に向けた自分の気持ちをストレートに伝える短い言葉がない。俺が知らないだけかも知らんが。

英語の手紙はそういう慣用句に満ちており、まあ形式的といえばそうなのだけど、読んでいる自分と書いた相手がとても近しい感じがする。

Dear に始まり、
glad とか appreciate とかちりばめて、
結びは Yours とかSincerely とか、件の
Thank you in advance とか。

読ませる人に書き手の気持ちが向いているということがビシバシ伝わってくるのである。
来たわコレ、最優先でやらないといかんねー、いやーいつも無茶言うなこいつ困るわー、とニヤニヤしながら席を立つ自分が想像できる。

これが日本語だと、
おつかれさまです とか お世話になっております とかで始まり、
していただければ とへりくだっておいて、
よろしくお願い申し上げます。 で締める。

あーめんどくせー断りたいなー、まあいま忙しいし明日やるかー、一応承りましたってメールだけ書いとくかー。

なんだこの違いは!
日本人の手紙はへりくだりすぎてもはや嫌味であるということが、こうやって比べるとよーく分かる。

手紙というものに対する文化的スタンスの違いと言えばいいのでしょうか。

かくして毎日なんとか自分の感謝を相手に伝えたいとモジモジしながら、今日も
お世話になっております。
と日本語でメールを書き始めるのだった。いっそ英語で書いてやろうかと。いやー困るわー。

言の葉の庭

言の葉の庭

六本木で観た。

やりたいこととやってることの不一致に苦しむ少年と、やりたいことから弾き出されて苦しむ女性が実は同じ(以下ネタバレ

若さゆえのストレートな感情に人は傷つきもし、癒されもする。大人だって、表に出さなくなってしまっただけで、奥のほうにはストレートな感情を抱えているのだ。

ストーリーはまあ多少の伏線はありつつも無駄なくエンディングに向けて一直線で、上映時間もすごく短い。46分。

どちらかというとストーリーよりは雨の描写にこれでもかというくらい手間がかかっていて、最初はアニメの雨と思って観ているのだけどいつの間にか100%本物の雨に見えてきて違和感なくて恐ろしい。夕立の場面が秀逸。雨の描写で力尽きて46分なんじゃないかと思うくらい。

雨を描いたアニメとしては世界最高峰ではないかと。そんなもんで最高峰極めてどうするのかとは思うが。

途中で女性の身分が唐突に明かされるのだが、そう言われてみれば途中にたくさんヒントがあったのだった。アレとか、アレとか。

しかし伊藤先生はひどいやつだな。ベランダで電話すんなよ。

最後にどうでもいいけど「だれかのまなざし」の途中で横のカップルがボソボソしゃべってて不愉快だった。映画館でしゃべる必要のないことをしゃべるのはやめましょう。あなたはよくても俺はよくない。

竜巻

アメリカで竜巻の被害がすごいらしい。アメリカは原発のハザードとして竜巻を最大のリスクと捉えたり、地域によっては一家に一地下壕というくらい竜巻がポピュラーなのだけど、テレビを観ていて印象的だったのが、
  1. 家を飛ばされた女性が意外に明るく「地下室に避難して私まんまと生きのびたわよ、おまけにテレビの取材も受けてこれで全米デビューだわざまあみろハッハー」という感じでテンション高くインタビューに答えていた
  2. 小学校に避難施設がなく子供が建物の下敷きに
1点目については、たぶんきちんと保険をかけているからだろうと思う。
ミズーリ州の竜巻、保険支払額10─30億ドルの可能性=分析会社 | Reuters
の大きさに比べてあのサイズの竜巻が来たら、鉄筋だって外装はボロボロになるだろうし、だったら地下室をきちんと金かけて作って命を守り、上屋は木造で保険をかけておいて、吹っ飛んだら保険プラスアルファで安く再建する、のがリスク管理として妥当だろうと思われる。命と保険があればあとはなんとかなるわよハッハー。
2点目は難しい問題で、小学校の児童全員が避難できる地下室を作るのがまず大変なことだろうし、後付けで作るのはもっと厄介だろうと想像する。小学校だけにある程度の人口密度がある街中、少なくとも村落の中央部に作るだろうし(ハワイで見かけたエレメンタリースクールがまさにそんな風情だった)、そこへ隣接地を確保して百人単位で入れる穴掘って入り口をきちんと密閉して、普段はいたずらできないように、でも緊急時には秒単位で開けられるように鍵を管理して、訓練を計画して…とかなかなか難しいことだなと思う。児童と教員はは定期的に入れ替わるし。いっそ防空壕みたいに千客万来で自治体単位のでかい施設を作って維持したらどうですかね。金かかるね。
オチはありません。

雲の向こう、約束の場所

雲のむこう、約束の場所 [DVD]

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大画面で観ると思ったよりキレイな絵。

  • 離陸したあと、台車はどうなるのか心配
  • あの塔は物理的に立たないだろ
  • あれだけ戦争するくらい揉めといて飛行機1機みすみす塔まで行かせるとかありえん
  • ハッピーエンドだけどヴェラシーラ着地どうすんの
  • 東京から北海道の塔が見えるとして、その高度に酸素ボンベも使わずに上がったら死ぬだろ
  • わざわざ山の上に鉄道駅とか、その駅が水はけ悪くて冠水してるとか
ツッコミどころは満載ですが、基本的にはとてもいい、アニメでしか表現できないアニメだと思います。

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年

久しぶりにまともな小説だと思いました。

不思議な舞台装置も、特殊な能力の持ち主も出てこない、そういう意味でのまともな小説。

主人公を大きく変化させ、ある意味では大きく損なった出来事について、きちんと謎解きというか、そうせざるを得なかった、そうまでして大切な人を結局救えなかったと、かつての親友たちのそうした苦悩をきちんと解き明かしてくれているところとか。

主人公が巡礼を通して、自分は不要とされて切られたわけではない、むしろ必要とされるだけの資質を持っていたし今でも必要とされている、そのことを知って、ある部分では以前よりも成長して帰ってくることとか。

ノルウェイの森で書かれた、生の対局ではなく生の一部として存在する死の淵を覗いて、それでも自分で人生を選び取って、あるいは親友に支えられて、そこから帰ってくることができた、そんな救いが示されたことは、村上春樹という小説家の進歩の証かな、とか。

いろんな意味でまともな小説だと思いました。

完璧な人間関係なんてものは存在しない、学生時代の狭い世界ではそれが存在するように思えても人が成長していく以上それは永遠には続かないし、だからといってそれで人生が終わったりはしないし、その先に別の豊かな人生が待っているのだということを知らない、今から苦悩することになる若者たちにこそ読んでほしい小説だと思いました。

細かいことを書き出すとキリがないというか、また改めて。