人魚の眠る家

東野圭吾原作。


映画『人魚の眠る家』公式サイト


あらすじも何も知らず、観たいと言うのでついていったら、思いがけず重いテーマを突きつけられてしまった。


脳死は人の死なのか。

甦る望みのない人に延命措置を施すことは正しいのか。

どこまでが献身的な介護で、どこからが延命措置で、どこからが家族の自己満足なのか。

何を回復と呼ぶのか。


障害や疾病を克服する個別の医療技術があり、それを組み合わせれば脳死以外はどこまでも救えるとして、それは医療と呼べるのか。

 

どこで死を受け入れるのか。受け入れられるのか。


人は技術を用いて何をやってよくて、何をやってはいけないのか。


このケースにおいてどこまでがセーフでどこからがアウトだったのか、観た人それぞれに意見は分かれると思う。

 

 

それほどに重いテーマを扱いきった、いい映画でした。

 

ハナレイ・ベイ

映画『ハナレイ・ベイ』 | 大ヒット公開中

全編余すところなく吉田羊。吉田羊が苦手な人はたぶん無理。

予告編からもわかる通り、原作とはだいぶ趣きが異なる。原作にはなかった小道具もいくつか現れる。しかしそれは最後にサチが愛するものの喪失と折り合いをつけるために選びとるものであり、この映画には必要なものだ。

きちんと原作に沿って話が進んでいくし、たぶん一番言いたいことは原作と同じだと思う。

 

受け入れること。

 

そして原作にはなかった10年という時間の流れをしっかりと表現することに、この映画は成功している。

 

例えばサチが海には近づかないこと。日陰にばかりいること。そして浜辺へ出て、海に入ること。最後にはまっすぐ海へ向かうこと。

例えばタカシの部屋をすっかり片付けてしまうこと。そして彼の遺品を取り出すこと。暗く淀んでいた部屋に風が入ってくること。

例えば手形を頑なに受け取ろうとしないこと。警官の奥さんと悲しみを分かち合うこと。

安宿がまともなホテルに変わること。酔っぱらいの支配人が大人になること。親友との別れを経験すること。

それらの変化に気づくきっかけとなる、若者たちとの出会い。

 

原作をミニマリズムの極致と受け取って、丹念に肉付けしていくと、このようなストーリーになるかもしれないと思わせるだけの自然な流れがあり、観終わった後には爽やかなカウアイの潮風が吹き抜けていく。

 

村上春樹の原作が好きな人にこそ見てほしいと思います。オススメです。

 

余談だが、栗原類のダメ男ぶりが素晴らしかった。これは確かに栗原類が適任だと思う。

その日の後刻に

 

その日の後刻に

その日の後刻に

 

 グレイス・ペイリーの3作目にして最後の短編集。

グレイス・ペイリーの文体にすっかり魅了されてしまっている僕にとっては、待ちに待った3作目なのだが、例によって難解で、今回はとうとう一度、途中で読むのを中断して放り出してしまった。だから半年かかってやっと今日読み終えてこうして読書感想文を書いているわけだ。

前作「最後の瞬間のすごく大きな変化」のように、短編と短編の間に明確な文脈があるわけではない。主人公は相変わらずフェイスとその友人たちなのだが、前作ほど視点が定まっておらず、色んなことをまぜこぜにしているように見える。

しかしザグラウスキーの語りを聞くとき、僕は唐突に知らされることになる。実はそのことこそがこの短編集の狙いであると。

前作の終わり方があまりにもカッコよくて、読者はすっかりフェイスの支持者になってしまうわけだが、今作で示されるのは、フェイスは正しい人ではないということだ。彼女は揺るぎない信念を持ってフェミニストであり政治活動家である(その点では間違いなく作者グレイス・ペイリーの現し身である)わけだが、その正しさ、いわゆるポリティカリー・コレクトネスこそが、あるときには攻撃対象とされた人を不幸のどん底に突き落として顧みないし、攻撃対象とされた人にももちろん人生があり、言い分があり、その人なりの正しさがあるのだ。

彼女にとっては首尾一貫した行動であっても、他の人から見ればそれは変節であり、友人たちから見てさえ、フェイスは友人でありながら許せない加害者であったり、母親としても尊敬できない人物であったりするのだ。

今作を通してグレイス・ペイリーが言いたかったのは、正しさとかストーリーとかいうものはきわめて個人的な視点であり、様々な視点から見ればそこには別の人物像やストーリーが立ち上がってくるのだということではないだろうか。

今にして思えば、もちろんそのことは前作や初作「人生のちょっとした煩い」にも共通するテーマの一つなのだが、前作が主にフェイスの視点から様々な人々を描くことでそのことを述べようとしていたのに対して、今作はむしろフェイスその人を友人たちや近所の人々の視点から描くことで伝えようとしている。それによってグレイス・ペイリーはそのことをより明確に示すことに成功したのだと思える。

今作ではフェイスはストーリー・ヒアラー(聞き手)でもないしストーリー・テラーでもない。フェイスの活躍を期待して今作を読むと少なからず戸惑うことになるだろうが、今作も間違いなくグレイス・ペイリーのヴォイスで書かれているし、彼女が示した、女性としての生き様における一つの(そして残念ながら最後の)到達点である。

余談かつネタバレになるが、今作ではアメリカにおける黒人差別の問題が一つの重要な題材として用いられている。もちろん黒人差別はいけないことなのだが、アメリカにおけるそれは単なる差別だけの問題ではなく、民族間、階級間、コミュニティ間の文化的な断絶、世代を超えて綿々と続く貧富の差がもたらす深刻で根強い困難であり、さらには女性に対する偏見や政治への無知も絡み合い、単に教育の機会や金銭的援助を与えれば解決するような簡単なことではないのだ。この辺日本人には(僕を含め)簡単に理解できることではないはずなのだが、グレイス・ペイリーはそのことを、ありふれたいくつかのストーリーで鮮やかに切り取って気付かせてくれる。

インフルエンザの予防と治療について考える

日曜日の未明にインフルエンザを発症した。

体温は37℃未満。激しい頭痛と喉の痛みと咳と全身の倦怠感。あと鼻水。

鼻水は多分関係ない(花粉症?)けど、インフルエンザなら家族に伝染さないように早く治したい。まだ判定キットで判定できるかどうかわからないタイミングだけど、家族をさらなるリスクに晒さずに自力でいける程度の近所で日曜日空いている医療機関は午前中に1箇所しかない。ので診察時間になったら電話して診察してもらえることを確認し、さっさと着替えてマスクを着用してその医療機関へ向かう。

当然同じことを考えた近所の皆さんが殺到しているわけでものすごく混んでいる。立錐の余地もないので階段に座り込んで待つ。問診票に「希望する診察・治療」という記入欄があり、インフルエンザ判定の項目があるので迷わずマルをつける。私の勤め先はインフルエンザに罹患したら有無を言わさず5日間出勤停止なのだ。インフルエンザじゃないならないでちゃんと確信を得ないといけない。

長い待ち時間を耐える。判定キットを使うまでに1時間半、そこから診察まで30分、会計が済むまでさらに1時間。うっかり向かいの薬局に入ってしまったら、そこも座るところがないくらい混んでいる。薬を受け取るまで2時間。

診察では医師から、インフルエンザの判定は陰性だったと言われる。だが熱がないのにこれだけ喉が炎症を起こしていて、頭痛があるのは、この季節ほぼ間違いなくインフルエンザだとの診断。熱が上がらないのはB型だろうと言われる。医者もいい加減たくさんの患者を診察して投げやりになっているのか結論を急いでいる印象。イナビルと解熱剤を処方された。

帰宅してイナビルを使う。使い方が難しい。これは説明書をよく読まないと間違えるね。服用は1回だけなのでタミフルよりは面倒が少ないかも。

そこからは家の中で隔離されてマスクをつけてひたすら横になって安静にする。家族にうつさないため、部屋を出るのはトイレの時だけ。食事もベッドの隣で一人で食べる。時々食欲がなくて、普段なら食べられる量を残したりする。そんな時に体温を測ると少し体温が上がっていたりして、体は正直だなと思う。体温が上がったと言っても38℃まで行かないので、結局インフルエンザなのかどうか確信が持てないけど、医者がそういうんだからそうなんだろうと思って勤め先にはインフルエンザに罹患したので5日間休むと連絡する。

3日目、熱は上がらなくなったがまだ少し頭が痛い。咳も少し残っている。トイレに行くとなぜか血尿が出る。排尿時に陰茎に痛みがある。なんだこれ。インフルエンザで血尿とか聞いたことない。

平日なので、日曜日に行ったのとは別の、かかりつけの医療機関に行く。尿検査。コップを当てがおうとしてふと下着を見ると真っ赤に染まっている。スプラッタ。尿も出始めと最後は真っ赤な血の色。俺死ぬんとちゃうかと呟いてしまう。

診察を受ける。インフルエンザと血尿は無関係とのこと。背中を叩かれたが全然痛くないので腎盂腎炎は否定。レントゲン撮影しても石が映らないので結石も否定。尿路感染症でしょうということで抗生物質を処方される。

インフルエンザはそのまま回復。血尿は抗生物質が効いたのかその日のうちに収まり快方に向かってよかったよかった。

そんな体験を踏まえつつ、さてここからが本題。

僕は重症化しなかったけど、なぜ重症化しなかったのか。

  • 事前にワクチンを予防接種していたから軽症で済んだ
  • 早めにイナビルを服用したから軽症で済んだ
  • 体力があったので軽症で済んだ
  • 必要以上の活動をせずに安静にしていたから軽症で済んだ
  • そもそもインフルエンザじゃなかったから重症化するわけがない

どの可能性も否定できない。

僕は最初の2つをきちんとやったことが自分のためには大事だったと思っている。できることはやっておくということだ。これを怠って重症化してから病院に駆け込むというのは愚の骨頂だとさえ思っている。今回の場合は回復が遅れていたら血尿への対応にも支障があったかもしれない。

 Vol.021 インフルエンザで「早めの受診」は間違いです! | MRIC by 医療ガバナンス学会

この論文では、一言で言うと、症状の軽いインフルエンザ患者は病院に来るなと言っている。しかしこの論文は、患者がなぜ病院に来るのかということを突き詰めずに、医療現場の負担を減らすことを目的として、そのための解決方法として軽症のインフルエンザ患者は病院に来るなと言っているので、患者には何のメリットもないただの空論になってしまっている。

患者は重症化したくないから、軽症のうちに治してほしくて病院に来るのだ。インフルエンザは重症化すると命に関わる病気なのだから、重症化したくないと考えるのは至極当然のことだ。

インフルエンザの厄介なところは、ただの風邪と区別しにくく、そのくせ治療薬が医師の診断なしでは得られないことだ。病院に行けば、迅速判定を受けられて、薬ももらえることはみんな知っている。そりゃみんな病院に行くでしょう。

つまりこれは患者に十分な判断基準と薬を病院経由でしか与えない医療システムの問題なのだ。そのくせ病院に来るなと言ったところで誰が従うはずもないのだ。

軽症のインフルエンザ患者に病院に来てほしくなければ、まず予防接種を義務化して発症者を減らし、それでも発症した人への診断・治療として迅速判定キットと抗ウイルス薬を市販すればよい。その上で、症状が悪化した人だけ病院に来いと言えばよいことだ。

インフルエンザの流行は病院で起きるのではない。放っておいても子供たちは学校へ行き、大人は満員電車に乗って通勤するのだ。伝染させないなんていうのはどだい無理な話なのだ。

現在の医療システムの中で物事を考えているとパンデミックとか公衆衛生とか耳障りのいい言葉で自分を正当化することしか思いつかない。物事の本質として何を防ぐべきか、そのためにはシステムをどう変えて行くのがよいのか、そういうことをきちんと考えて論じてほしいと思う。

ナウマン答え合わせ

iPhoneのメモアプリをいじっていたら5月18日に書いたメモが出て来た。このまま捨てるのもアレなので貼っておく。

この考察はたぶんほぼ正しかったと自負しているのだが、例え話なので何のことやらさっぱりわからんという人はスルーしていただいて構わない。ナウマンというワードに引っかかる人だけに意味があるだろう。

 

ナウマンが出てきたけどあまり話題になってなくて、なんで話題にならないかということを、カレーライスのチェーン店というたとえ話で考察してみたい。

まず始めに全国展開のカレーライスのチェーン店がある。みんな利用していて、レシピとかは秘密だし持ち帰り不可だけど美味しいのでみんな満足している。

次に、自由なカレー屋さんのレシピが公開される。カレーをお持ち帰りして他の店に持ち込んでもいいという商法が新しいと話題になる。

そのレシピで大学院生がカレー屋さんを開いて大人気となり投資を勝ち取ったり、エッチな絵をばらまくカレー屋さんや会員制サービスの一業態としてのカレー屋さんが出てくる。エッチな絵をばらまくカレー屋さんは、よその店に客が流れてきてカレーではなく絵をばらまくので、出入り禁止にされたりする。大学院生は会員制サービスのカレー屋さんの社員に雇われるが、自分のカレー屋さんの経営は続けていいという不思議なことになる。

ここで一人の若者が立ち上がり、「お前らこんな不味いカレーの食い方で満足なのか。俺がもっと美味いカレーの食べ方を教えてやる」と言ってみんながシーンとなったところでやおら山籠りを始める。

若者が不在の間に小さなカレー屋さんがたくさんオープンする。ある大学の学生しか入れないカレー屋さんとか、鹿肉カレーを出すカレー屋さんとか。鹿肉カレーは客を囲い込んで、カレーを持ち帰り禁止にしてしまう。

みんながそれぞれ好きなカレーの食べ方を見出した頃に若者が山籠りを終えて戻ってきて、「これが美味いカレーの食べ方だ」と言ってなぜかカレーライス屋台の開きかたの本を出版する。レシピは、よそのカレー屋さんのカレーを全部買ってきて混ぜて食うと書いてある。

みんな「ふーん」と言って家に帰る。俺はカレーが食べたいのであって、めんどくさい思いをしてまで自分専用の屋台を開きたいわけじゃない。また明日、いつもの店に行こう。(←イマココ)

一つの時代の終わり

最初に書いておくが僕は関係者ではないし業界人ですらなく、ちょっとセンチメンタルな気分になっただけなので、なにかおもしろいこぼれ話が出てくるわけではない。あと時系列は全く確認せず印象で書いてるのでそのへんは勘弁してください。

はてなの近藤取締役が一部事業とともにはてなの非常勤取締役に退くという話。

「物件ファン」に新会社で注力:はてな創業者・近藤会長、代表取締役を退任へ(要約) - ITmedia ビジネスオンライン

僕にとってはてなという会社は人力検索と日記の会社で、近藤夫妻とマスコットのしなもんが表に出ている印象が強かった。インターフェイスが商売臭くなかったのではてなダイアリーを使い始め(て、その後勧められるままにはてなブログに移行して現在に至り)たあとで、いろいろなサービスが出ては消えていくようになった。

今や増田という通り名を得て怪しい出処不明のリーク情報の巣窟となったはてな匿名ダイアリーとか、ブックマークというよりは一口コメントを交換するインターフェイスに化けたはてなブックマークとか、なんかよくわからなかったはてなワールドとかはてなハイクとかその他もう名前も思い出さない、けったいなサービスを続々と作る傍ら優秀なエンジニアを集めて、reikonが彼らに食事を振る舞ったりしていた頃が全盛期ではなかったか。

ゆるく作ったサービスを早めにリリースして、ユーザーのフィードバックを踏まえてサービスをブラッシュアップする、というスタイルは当時のインターネットを志すエンジニアの卵たちにはたまらないスタイルだったらしく、後発の様々な会社の様々なサービスが生まれては消え、売られてはサービス終了するというカジュアルな流れは、はてなという会社がその源流といっても過言ではないと思う。

そんな中でもはてなは自分のスタイルを貫いてよくわからないサービスをリリースしては手が回らずに腐らせるという愚行を繰り返していたわけだが、いつしかその流れも淀み、しなもんがこの世を去り、比較的早期からのメンバーだったであるれいこんはてなを去ったことで、ある意味はてなという会社は日本のインターネットの中心から置いていかれたのだと、今は思う。

そして近藤氏本人も非常勤取締役に退き、これではてなの、そして日本のインターネットの一つの時代が終わったという感じがする。

近藤氏が持っていく物件ファンというサービスを今朝初めて眺めてみたけど、こういう切り口は確かに今まで見なかった。そして流行るかどうかというと…かなり微妙。相変わらずのjkondoスタイルですね。今後ますますのご活躍をホントに期待してます。