ドライブ・マイ・カー

 

文藝春秋 2013年 12月号 [雑誌]

文藝春秋 2013年 12月号 [雑誌]

 

 話の上面は「妻が生前に浮気していた理由が理解できずに引きずって苦しむ男」についての話だが、本題はそこではなく、主人公やその妻や友人(妻の浮気相手)の共通の職業である俳優に引っかけて、「人間は誰と接するときでも少なからず演技しており、全てをさらけ出して理解しあうことなどできない」ということについて書かれている。

主人公は妻が生前何人もの男と寝ていたことの理由が理解できないでいる。妻は長年連れ添った伴侶であり、自分が妻のことを最も理解していたし、全てを理解していたと信じたいし、分からないことがあれば今からでも、例え妻の浮気相手から聞き出してでも、理解したいと思っている。そのため実際に浮気相手の一人と個人的な飲み友達にまでなってしまう。相手に自分には足りない何かがあり、妻がそこに惹かれたのではないかと考えている。しかしその友達付き合いから、相手が人間として、あるいは俳優として、自分より特に優れたところを見出すことができず、いつしかその付き合いすらやめてしまい、俳優としての自分の外面の殻に引きこもってしまう。

もちろん、その飲み友達(浮気相手)が言うとおり、「どれだけ理解しあっているはずの相手であれ、どれだけ愛している相手であれ、他人の心をそっくり覗き込むなんて、それはできない相談」だ。しかし主人公はそれを強く求めている。

そのような姿勢は時として相手を息苦しくさせる。なぜなら人は誰しも、誰の前でも多かれ少なかれ演技しており、全てを相手にさらけ出すことなど決してありえないからだ。例えば、一連のストーリーは主人公から彼の雇われ運転手への打ち明け話として語られるが、心に抱えた秘密をさらけ出したからといって主人公と運転手が親しくなるわけではない。どれだけ深く他人の心をのぞき見たからといって、そのことが他人との関係を完全なものにしてくれるわけではないのだ。そこを履き違えると、自分だけでなく相手をも苦しめることになる。例えば夫婦の関係にしても、夫が求めているものと妻が求めているものは少しずつ異なっているはずなのだ。

もしかしたら主人公の妻は、主人公が自分に求めている、そのような「全てを分かり合った関係」を演じ続けることが息苦しくなって、主人公に対する秘密として他の男性と関係を持つことで、演技者としての自分を保とうとしていたのではないかとも思う。一時逃避、あるいはガス抜きのようなルーチンワークとして。

ところで、同じようなことが、「羊をめぐる冒険」の冒頭でも語られていたことを思い出した。

彼女が消えてしまったのは、ある意味では仕方のない出来事であるような気がした。すでに起ってしまったことは起ってしまったことなのだ。我々がこの四年間どれだけうまくやってきたとしても、それはもうたいした問題ではなくなっていた。はぎとられてしまったアルバムと同じことだ。

それと同じように、彼女が僕の友人と長いあいだ定期的に寝ていて、ある日彼のところに転がり込んでしまったとしても、それもやはりたいした問題ではなかった。そういうことは十分起り得ることであり、そしてしばしば現実に起ることであって、彼女がそうなってしまったとしても、何かしら特別なことが起ったという風には僕にはどうしても思えなかった。結局のところ、それは彼女自身の問題なのだ。

(中略)

彼女にとって、僕はすでに失われた人間だった。たとえ彼女が僕をまだいくらか愛していたとしても、それはまた別の問題だった。我々はお互いの役割にあまりにも慣れすぎていたのだ。僕が彼女に与えることができるものはもう何もなかった。彼女にはそれが本能的にわかっていたし、僕には経験的にわかっていた。どちらにしても救いはなかった。 

 こうやって並べてみると、むしろ「羊をめぐる冒険」の主人公のほうが達観しているようにも見えるのは、僕だけではないのではないか。もちろん、達観したからといって救われるわけではないのだけれど。