<a href="http://blade.nagaokaut.ac.jp/cgi-bin/scat.rb/ruby/ruby-list/42243">コミュニティと宗教の分離について</a>

悪徳商法マニアックスの中の人がruby-list MLに投稿したメールから始まる、一連の議論。ワタシなりに思うことをメモしておく。

先に書いておくが、ワタシはモルモン教徒ではないし、なんの宗教も信じていない。

日記は生活の記録だから

本人が宗教と密接に関わる生活をしていれば、それに触れるのが自然なことだ。触れないのは不自然だし、隠しているように感じられるだろう。なぜ隠す必要があるのか、隠す必要があるような後ろめたいことがあるのか?と勘ぐられてしまい、かえって正しく理解してもらえなくなる。
普段から自分と宗教の関わりを自然に書き留めているmatzさんの姿勢は、至極真っ当なものだと思う。

他へ分離して隠すことのメリットがあるのか?

いまmatzさんの日記から宗教との関わりを削除してしまうと、それはとても不自然なことになる。それはmatzさんから宗教人としての日常を取り去ることであり、本人の日常のかなりの割合を占めている宗教というものを、本人のイメージから不自然に分離する結果になる。
それは逆にmatzさんに「隠し事をする人」というイメージを付加してしまい、matzさんのためにも、Rubyコミュニティのためにもならない。Rubyの発展には寄与しないどころか害になるかもしれない。
隠し事をするな、というのではない。本人が分かちがたい生活の一部として敢えて晒している宗教との関わりをわざわざ隠すことは、何のイメージアップにもならない、ということを言いたい。それは隠さなければいけない宗教なのだというイメージを醸し出して、特定の宗教に対する偏見をかえって助長する結果になる恐れがある。

現状を正しく評価しよう

現状は以下の通り。

  • matzさんは自分が特定の宗教を信じて活動に勤しんでいることを堂々と告白している
  • matzさんが設計したRubyという言語は(Railsというキラーアプリの登場もあって)いま大きな注目を集めている。
  • それは一朝一夕に祭りあげられた評価ではなく、着実にユーザー数を増やした結果として実りがもたらされたものだ

結論。
Rubyが言語として優れているという現在の認知状況は、matzさんがどのような宗教を信じているかということに関係なく、公平な評価の結果としてもたらされたものだ。matzさんが特定の宗教を信じていることは多くの人々が知っているが、それを知ってなお多くの人々がRubyを好んで使っている。
世の中捨てたもんじゃない。

ソースコードと宗教の分離

がなされていればそれでよい。

  • インストールするときに特定の宗教に関連するWebサイトに誘導されたりしない
  • 使っているだけでいつのまにか特定の宗教の集会に出席していたりしない
  • オープンソースなのでそのようなあやしいからくりが無いことは容易に確認できる

Rubyは優れた言語。オープンソース。それで十分ではないか。

議論の姿勢

そこで、Rubyの一利用者としては、rubyistサーバー上から、モルモン教に関する記述を全て削除し、別の日記として公開すべきだと思うのですが、どうでしょうか? それとともに、rubyistサーバーやRAA利用のガイドラインとして、特定の政党や宗教との分離を掲げる方が良いのでは無いかと思いますが、いかがでしょう?

と書いておいて、

補足ですが、別にruby-listで議論を続けるつもりはありません。 書きたいことは最初の投稿で書きましたし、そもそも続けても無駄なので。

とか、

現在のところ大げさにしたくは無いと思っているのですが、面倒だったら自分の媒体に書けば良いだけですので。

とか書くのは、人間としてどうかと思うぞ。

勝ち負けの問題ではない

管理者側の方々と議論しても勝てるわけないし、勝つつもりも無いのですが、

勝ち負けの問題ではなく、ある人の書く文章から、信仰の告白を奪う権利が他者にあるのかどうか、という問題だと思う。