その日の後刻に

 

その日の後刻に

その日の後刻に

 

 グレイス・ペイリーの3作目にして最後の短編集。

グレイス・ペイリーの文体にすっかり魅了されてしまっている僕にとっては、待ちに待った3作目なのだが、例によって難解で、今回はとうとう一度、途中で読むのを中断して放り出してしまった。だから半年かかってやっと今日読み終えてこうして読書感想文を書いているわけだ。

前作「最後の瞬間のすごく大きな変化」のように、短編と短編の間に明確な文脈があるわけではない。主人公は相変わらずフェイスとその友人たちなのだが、前作ほど視点が定まっておらず、色んなことをまぜこぜにしているように見える。

しかしザグラウスキーの語りを聞くとき、僕は唐突に知らされることになる。実はそのことこそがこの短編集の狙いであると。

前作の終わり方があまりにもカッコよくて、読者はすっかりフェイスの支持者になってしまうわけだが、今作で示されるのは、フェイスは正しい人ではないということだ。彼女は揺るぎない信念を持ってフェミニストであり政治活動家である(その点では間違いなく作者グレイス・ペイリーの現し身である)わけだが、その正しさ、いわゆるポリティカリー・コレクトネスこそが、あるときには攻撃対象とされた人を不幸のどん底に突き落として顧みないし、攻撃対象とされた人にももちろん人生があり、言い分があり、その人なりの正しさがあるのだ。

彼女にとっては首尾一貫した行動であっても、他の人から見ればそれは変節であり、友人たちから見てさえ、フェイスは友人でありながら許せない加害者であったり、母親としても尊敬できない人物であったりするのだ。

今作を通してグレイス・ペイリーが言いたかったのは、正しさとかストーリーとかいうものはきわめて個人的な視点であり、様々な視点から見ればそこには別の人物像やストーリーが立ち上がってくるのだということではないだろうか。

今にして思えば、もちろんそのことは前作や初作「人生のちょっとした煩い」にも共通するテーマの一つなのだが、前作が主にフェイスの視点から様々な人々を描くことでそのことを述べようとしていたのに対して、今作はむしろフェイスその人を友人たちや近所の人々の視点から描くことで伝えようとしている。それによってグレイス・ペイリーはそのことをより明確に示すことに成功したのだと思える。

今作ではフェイスはストーリー・ヒアラー(聞き手)でもないしストーリー・テラーでもない。フェイスの活躍を期待して今作を読むと少なからず戸惑うことになるだろうが、今作も間違いなくグレイス・ペイリーのヴォイスで書かれているし、彼女が示した、女性としての生き様における一つの(そして残念ながら最後の)到達点である。

余談かつネタバレになるが、今作ではアメリカにおける黒人差別の問題が一つの重要な題材として用いられている。もちろん黒人差別はいけないことなのだが、アメリカにおけるそれは単なる差別だけの問題ではなく、民族間、階級間、コミュニティ間の文化的な断絶、世代を超えて綿々と続く貧富の差がもたらす深刻で根強い困難であり、さらには女性に対する偏見や政治への無知も絡み合い、単に教育の機会や金銭的援助を与えれば解決するような簡単なことではないのだ。この辺日本人には(僕を含め)簡単に理解できることではないはずなのだが、グレイス・ペイリーはそのことを、ありふれたいくつかのストーリーで鮮やかに切り取って気付かせてくれる。