行政はケースに応じた対応を

このニュースに反応して、しかし小学校の話を重点的にしてしまうのだが。

判決はまず「障害がある児童の入園を一律に認めないことは許されない」と指摘。鈴花ちゃんについて、自分で吸引行為が出来ることや医師の診断書を基に「障害の程度や内容に照らし、身体的・精神的状態や発達は、障害のない児童と変わりない」と判断した。市側は「看護師が付きっきりで看護できる態勢にない」などと主張したが、判決は「付きっきりの必要はない」と退けた。

障害をもった子供を通学させる設備としては、例えば養護学校があり、たとえば特殊学級があるわけだが、そういう子供たちは日常の学校教育においては「いないこと」になっている。例えば運動会だが、ワタシの上の息子の運動会では、特殊学級の子供たちは出場していなかった。普段も授業を一緒に受けることはない。給食を一緒に食べる子供もいるようだが、それはそれ、という感じで、そこからさらに何かに結びつける、ということは行われていない様子*1

確かに、仮に障害を持った子供たちと学校生活でもっと接点を持とうと思うと、どうやって持てばいいのか難しいところは多いと思う。授業に集中できる時間が短かったり、周期的に身体面のケアが必要だったりする子も多いだろう。
しかし、その場に自分たちとは明らかに異なる身体的特徴を持った子がいると強く認識することで得られるものも、やはりあるのではないかと思う。ダイバーシティという言葉が最近よく言われるが、世の中にはいろんな健康状態の人がいるということ、それでもやはりそれぞれが一個の人格なのだということを理解するのは、将来のために決して無駄にはならないはずだ。
できる範囲でやればいいのではないかと思う。障害の程度によって、今回の鈴花ちゃんのように、自分で自分を制御できるような場合には、健常な子と共に授業を受けさせることは、その子だけ見れば、十分に可能だ。もちろん教師や保健室には特別の体制が必要になるだろう。しかしそれは、やってやれないことではないはずだ。それができないのは、特殊学級とか、養護学校とかがシステムに組み込まれており、それを超えたケースバイケースの運用をルールが許していないからだ。
別に特殊学級や養護学校を否定しているわけではない。そういう場のほうが本人にとって幸せな場合もあるだろう。しかし幼稚園、小学生といった年齢にもなれば、ある程度の自分の意思表示はあるのだ。それをケースバイケースで可能な限り尊重できるような、みんながどうやればその望みを叶えられるか考えていけるようなルールに変更していくことが、なぜできないのか。なぜ法廷闘争でなければそのような選択を勝ち取ることができないのか。大人たちの頭がルールありきで硬直化しているのではないだろうか。
是非、そのような弾力的な運用ができるrobustなシステム、ルールになって欲しいと思う。

*1:その場に居合わせたことがあるわけではないので推定で書いています、すみません