タイプファイによる言い訳

私は、現在の新卒採用では「コミュニケーション能力=フツーに要領よく生きていく力」とされていること、そしてその「フツーに要領よく生きていく力」が実社会で有用なものであることも前提として認めています。

ワタシはそのような「コミュニケーション能力」の定義を採用しないし、「フツーに要領よく生きる」力だけが就職活動に求められているとも思わないが、『「フツーに要領よく生きていく力」が実社会で有用なものである』ことは認める。

コミュニケーション能力とは、

  • 人の言うことを聞いて理解し、
  • 自分の考えを相手に理解できるように表現する

ような能力のことだと思う。目の前の相手を満足させるには、特に前者が重要となるだろう。

その上で、

  • 「コミュニケーション(意思疎通)」という言葉に「フツーに要領よく生きる」という意味だけを与えてるのっておかしくないですか?
  • 「フツー力」が有用なのはともかく、それが少ない人はそんなに駄目人間ですか?
  • じゃあ非コミュはどうやって生きていけとおっしゃるの?

って伝えたかったのですけどもね。

人の言うことを聞いて理解し、自分の伝えたいことを相手に理解できるように伝える、そのような能力に欠ける人は「フツーに要領よく生きる」ことにかなりの齟齬を感じることになるだろう。そもそも人から何かを受け取らず、人に何かを伝えずに、社会の一員として他の一員たちと共生するのは無理じゃないか?

フツー力がないといくら勉強頑張って好成績を修めても希望のところに就職もできないなんて学校では教えてくれなかったじゃないか!それなら、非コミュの私は早いうちに理系に行くか資格職を目指すか職人になるかの選択をしとくべきだったのですね。

理系の人も資格職の人も職人の人も、別に非コミュとは限らない。そもそも「非コミュ」「理系」「資格職」「職人」というタイプファイの定義が不明確すぎる。それぞれどのような定義であなたは話をしようとしているのか。そもそもそのようなタイプファイは可能なのか。人間は理系と文系に分けられるのか?人間の性格は資格職と無資格職で違うのか?職人はコミュニケーションができないのか?
人間はそんな簡単に血液型性格診断みたいに分類して論じることはできない。できないから、雇用者は採用に際して履歴書だけで判断せずに(企業によっては履歴書を見ずに)、面接などで直接その人を見て採用/不採用を判断するのだ。そんなタイプファイで自分の能力不足を言い訳して殻に閉じこもっているうちは、初対面の相手に自分を理解してもらうことなど決してできない。