ライセンスにできることと、できないこと

八田真行さんのブログに、すごく懐かしい話が書かれていたので思わず反応。

また、一般人が読めるようなソースコードも、雑誌に載るような短いサンプルを除けばほとんど出回っていなかったような気がする(ダンプリストが載っている雑誌は昔からあったが、あれは打ち込むためのもので、少なくとも私にとっては読めるものではなかった)。

うむ、ベーマガとかI/Oとか、そういう雑誌を買ってきてソースリストやらバイナリダンプやら打ち込んで動かしましたなあ。意味も分からずに。いや、BASICは勉強してちゃんと書けるようになったが。しかしそのころはゲーム以外にやりたい(and/or できる)こともなく、つまらんゲームをいくつか書いた(ベーマガに応募すらした)だけで、結局能力の持ち腐れ、文字どおり腐ってしまった。その後再びまともにコードを書いたのは大学の授業でFORTRANを触ったときじゃなかったかなあ。いや、その前になんかあったような気もする。なんだっけかなあ。BASICでなんか書いたなあ…。まあいいや。
でもそのころの原体験はやはり無駄ではなく、今でもソフトウェアを作ったり使ったりする仕事をしている。子供にマイコンを触る機会を与えてくれた両親の先見性に感謝したい。
と、思い出に浸ってみたが、当然八田さんの言いたいことはそんなところにあるはずもなく。

あるいは、こういった気分や気質を失って潜在的な危険に鈍感となり、たとえば洗練されたDRM(DRMは別にコンテンツの権利処理がどうのこうのという文脈でのみ問題となるわけではない。Trusted Computingなどにも見られるように、DRMによって様々な形で引き起こされる脅威は数知れないのだ)が静かに普及していき、いつの間にか自由ソフトウェア/オープンソースを成立させていた前提そのものが失われるような事態に陥らないだろうか?

たぶん、GPLv3のDRM条項のことを言いたいのだと思う。確かにDRMは脅威だが、Torvalds氏が主張しているように、ソフトウェアがDRMを制限することでもたらされる弊害、というものが確かに存在する以上、あのDRM条項は(少なくともあのままでは)機能しないと思う。あのライセンスが意図しているのは「DRM手法を使うな」ということなのだと思うのだが、しかしそれは企業の営利行為と相容れないのではないか。
私は別にTrusted Computingばんざいとか言いたいわけではないし、むしろDRM的な手法はいちいち使わないで欲しいと思っている。ハードウェアはインターフェイスの仕様をことごとく公開してもらって、XやらLinuxやらのドライバが開発しやすいようにして欲しい。何かの鍵でサインしたモジュールでないと動作しない、とかは是非ともやめてほしい。でも、なんでもかんでも仕様を公開していたら、製品の機密情報がダダ洩れになって技術開発に投資する意味がなくなってしまい、進歩が止まってしまう、という主張も非常によく分かる。だからそこは毒として含んでもらって、私は消費者の一人として、よりオープンな仕様で動くハードウェア、それを動かす自由なソフトウェア、そうしたものを利用していくことで、自分の望みを示そうと思う。
悪く言えば不買運動みたいなことになってしまうのだが、ソフトウェアのライセンスはソフトウェアの土俵で戦い、コンテンツやハードウェアは自分の主義や希望に合うものを選んで金を払う、その方が、秘密鍵を要求するライセンスとして営利企業のGPL離れを引き起こすよりはより現実的で、ソフトウェアの自由に役立つ行動ではないかと思う。
逆に、ソフトウェアのライセンスがソフトウェア以外の部分についてDRMを禁じる必然性がよく分からない。なぜそこで禁じなければならないのか。Torvalds氏も書いている通り、ソフトウェアに関する限り、既にDRMへの対抗手段は「ソースを公開する」という形で得られているじゃないか、と思うのだが、それでは不十分なのか?