映画「聲の形」

「聲の形」を観た。

原作を読まずに観に行った相方から、上映後に質問責めに遭った。原作を読んでから観に行くべきなのかもしれないと思う。

原作のマンガ7巻分を2時間程度に丸めるのだから、色んな要素が割愛されるのはやむを得ないことだ。映画を観てから改めて原作を読むと、全体的には脇役の抱える問題やその解決がざっくり割愛されていることがわかる。石田と西宮と結弦の成長を描くことに重点を置くために、やむを得ない変更だったのだろう。

細かいことは色々あるのだけど、ちゃんと考えられているので、原作を読んでから観に行く分には大変よい映画。難しい題材だが京都アニメーションは大変いい仕事をしたと思う。

いじめられっ子だった自分としては色々心に刺さって大変だったことと、×が一斉に落ちる瞬間は漫画ではできない、動画と音楽のフルパワーで涙なしには観られない出来栄えで大変よろしかったことは特筆しておく。

以下、原作と映画の細かい相違点など書きかけたので置いておく。オチはない。

  • 例えば原作では大きな題材になっている映画製作の話は完全に割愛されているので、永束が石田との友情に異常にこだわる理由がよくわからない。映画だけ観ると永束は弱気だがいい奴くらいの位置付けになっている。
  • 植野が猫のポーチに入れた手紙が出てこないのと、植野と石田の小学生時代の絡みが割愛されたために、彼女が石田との関係に執着して西宮を排除しようとする理由も説明されず、植野はただのいじめっ子キャラになってしまっている。
  • 川井が真柴に絡む場面が少ないことや、映画製作の話が割愛されたため、結果的に真柴の存在感が非常に薄く、「君はすごいよ」というセリフが意味をなくしている。
  • 映画製作がなくなったため、川井は泣いてばかりでただ事実を曲げて保身に走るいい子ぶりっ子に見えてしまう。
  • 西宮母の育児放置が全然描かれていないのと小学生時代の石田との絡みがないため、結弦が不登校でいることや、手話教室での冷淡な態度や、公園で野宿していることや、石田の家に泊まったあとで妙に協力的になることの理由が見えない。
  • 逆に、西宮母が育児放置になった理由が描かれないため、西宮母はひたすら人にも自分にも厳しい人的な扱いになっており、祖母の死が西宮家をほとんど何も変えていない。
  • 細かいところではなぜマリアの肌の色が黒いのか、とかも、父親が帰ってくるまでさっぱりわからない。最初にチラリと父親が出てくるのだが、あれで分かれというのは無理があると思う。

一方で、2時間で成立させるために原作から細かく変更するなど様々な工夫も見られる。

  • 祖母の葬儀の場面で、原作では西宮母の涙を目撃するのは石田だが、映画では結弦になっていて、手紙を読む時間を省略しつつ、母に対する態度が軟化するきっかけとして描かれている。これがないと、花火のシーンで結弦が気を利かせて母と二人でたこ焼きを買いに行くシーンが不自然になるだろう。
  • カラオケに行くのは西宮と佐原の二人きりになっている。また、ジェットコースターで相席を求めるのは佐原ではなく石田になっている。佐原から石田への絡みを極少化することで、佐原の問題はざっくり割愛することに成功している。