選挙活動はムダの極み
洗濯の効率化
洗濯において効率が問題になるのは、
- 洗濯物のバッチ分類
- 干す作業
- 乾かす時間
- 畳む作業
- 所定の保管場所へ格納する作業
なのであって、これらの最適化が重要。
逆にいうと、取り込む手間ははっきり言ってどうでもいい。せいぜい、畳む場所と干す場所を近くして、取り込む手が一杯になったら畳む場所へ投げられると楽だよね、くらいか。
以下、個別に論じていく。
洗濯物のバッチ分類
最初からオカルトなのだが、生理的にどうしても分けたい洗濯物というのがある人がいる。例えば下着とタオルを別にしたいとか、子供の野球のユニフォームが吐き気を催すほど泥だらけなのでこれだけ他のものと分けて特注の洗剤を使いたいとか。
解決方法としては、先に洗いたい物を洗濯槽に、後回しにしたいものは洗濯カゴに入れる、という風に、ストックする時点で分類しておくことが大切。
全部洗濯カゴに入れておいて後で分類しようと考えると、どうしても汚れ物を後から触るイヤーンなひと時を過ごすことになり、分類が面倒になってしまう。一つの洗濯物を分類するコストは知れているので、洗濯物を脱ぐとかストックするとか、分類よりもコストの高い、しかもまとめてできない作業とくっつけて分類し、結果的に分類するというめんどくさい時間帯を散逸させてしまうのがコツ。
洗濯物を干す作業
干す作業は結構時間がかかるし、ベランダに出るのが冬は寒いし夏は暑いしたまらん。なるべくささっと干したい。
そのためには洗濯機から洗濯物を取り出すときになるべく分類してシワもあらかじめ伸ばしておくことが肝要。
シワを伸ばすといってもこの段階ではパンパンってして畳んで重ねるだけだが。
取り出す順序にも配慮が必要。いちばん手前に干すものがいちばん先に干せるように、いちばん最後に取り出す。さらに言うと、小さなもの、靴下とか帽子とか、そういうものは最後に残ってしまい、あーまだあったよー、となりがちなので、むしろ積極的に後回しに残しておき、絡まりがちな大物から出す。
うちの場合、ベランダへの通路から遠い、つまりベランダの奥の方から
- バスタオル
- シャツ・上着
- 長ズボン
- タオル・下着・短ズボン
- 靴下
同じ種類の物をまとめて取り出すことで、取り出したその場で畳んでも重ねやすく、洗濯カゴの中で荷崩れが発生しにくくなる。
畳みかた
畳むときに大事なのは、早い畳みかたではなく、収納場所から取り出しやすい畳みかた。つまり、畳みかたと収納方法はセットで考えることが肝要。
よく、タオルを上下に重ねて収納する人がいるが、あれは代表的な悪手。重ねるときも、取り出すときも上から処理しがちになり、下の方のタオルは使用頻度が下がる。タオルって型崩れしやすいので、だんだん下の方がみっともない感じになってしまう。せっかく洗ったのに湿って潰れて、ますます使うのがイヤになる。
100円ショップでプラスティックの長方形のカゴを買ってきて、タオルを横に並べて収納し、カゴごと棚にしまうのがよい。こうすれば、洗ったタオルを畳んで奥へしまい、手前のタオルから使うことができ、ストレスなくローテーションできる。
靴下や下着も同様に、ローテーションできる収納方法でよい。シャツや上着などタンスに仕舞うものも、できるだけ縦に並べて収納すると、全体が見えるし、着たいものだけが取り出せる。これが基本。あとは応用として、靴下は口を袋おりにして一足ごとにまとめるとか、パンストは結んだ方が取り出しやすいとか、Tシャツの丸め方とかあるが、この辺は収納場所によってコストとメリットの兼ね合いがあるので省略。
洗濯物を畳むときは、持っていく場所ごとにまとめるようにする。また、畳んだ後で積むときは大物が下、小物が上、となるように積むと安定して運びやすい。そこで、畳んだときに、まずは持っていく場所と物の大小でグループ分けした小さな山をたくさん作りながら畳んでいき、最後に持っていく場所ごとにグループを統合し、大物から順に積み上げた大きな山を築くようにする。
まとめ
このように文章にすると面倒くさく見えるが、毎日やることなので慣れの問題。むしろ徹底して効率化することで、何も生み出さない、基本的には衣類やリネンを疲弊させていくだけの洗濯という不毛な作業の時間を短くして、もっと楽しいことに使える時間を1分1秒でも長く作り出すことに意味がある。
もっと効率化したいのだが大体上記のような形でプラトーに到達しており思考停止気味なので、何かもっと効率化できるところがあれば教えてください。
キャプテンの決め方
僕自身の所属した部活とか、子供のスポーツで見てきたキャプテンの決め方って、実は結構いろいろあって、
- 互選(誰がキャプテンになるのがいいか、話し合って決める)
- 立候補して投票
- 責任者(監督とか部の顧問とか、要は大人)が指名
- 先輩が後継者を指名(もうすぐ卒業する学年が、次のキャプテンを決めて、お前がやれと言う)
- 先輩が後継者を選んで、責任者が承認(実際には責任者がよいと思う名前が出てくるまで何度も選び直させる)
などなど。どれがいいとか悪いとかではなく、まあよくもこんなにいろんなやり方があるものだなあと思う。
でも、実は「キャプテンとは何に責任を持つ立場なのか」ということをきちんと定義し、メンバーが共有した状態でキャプテンを決めたことはないような気がする。全ての決定プロセスをつぶさに見たわけではない(というか、ほとんど知らないうちに決まっていたり、結果だけ知らされることが多かった)ので、実はそういう手続きを踏んだ例もあるのかもしれないけど。
キャプテンの役割って、一般的なゆるい定義としては、以下のようなものではないかと思う。
- キャプテンはみんなに指示をして、みんなは基本的にそれに従う。
- 異議があればキャプテンに言う。
- キャプテンはみんなの意見を聞いて、方針を決定する。
- チーム全体を統率して円滑に運営する責任は第一義的にはキャプテンが負うが、キャプテンの指示にみんなが従うことが前提。
- チームとしてのパフォーマンスの結果について、キャプテンのせいにはしない。
…もうお気づきかと思うが、すでに「いやそうじゃなくて…」という部分が、上の定義には混じってきているのではないだろうか。
キャプテンの役割・権限・責任って、実は結構重要なのに、ちゃんと定義してみんなで合意している例はあまりないのではないだろうか。
たぶん、世の中にはキャプテンの役割・権限・責任についてルールを決めて、ちゃんと合意しているチームもあるのだと思う。でも大部分は、そのへんあいまいにしたまま、漠然とキャプテンという役割を誰かに任せているのではないか。
それってそのキャプテンになった人にとって、あるいはチームにとって、幸せな状態なのだろうか。キャプテンになった人が、自分が思っていた以上の責任を負わされたり、チームがキャプテンに期待している役割をキャプテンが実行してくれなかったりするような、不幸な状態になっているチームも、あるのではないだろうか。ちゃんと合意してから、双方納得してキャプテンを選んだほうがよいのではないだろうか。
…というようなことを、
http://ameblo.jp/tsutomu-nishino/entry-11814889753.html
あたりを読んで思った。
こんなにはっきり覚えていることはとても珍しい
ドライブ・マイ・カー
話の上面は「妻が生前に浮気していた理由が理解できずに引きずって苦しむ男」についての話だが、本題はそこではなく、主人公やその妻や友人(妻の浮気相手)の共通の職業である俳優に引っかけて、「人間は誰と接するときでも少なからず演技しており、全てをさらけ出して理解しあうことなどできない」ということについて書かれている。
主人公は妻が生前何人もの男と寝ていたことの理由が理解できないでいる。妻は長年連れ添った伴侶であり、自分が妻のことを最も理解していたし、全てを理解していたと信じたいし、分からないことがあれば今からでも、例え妻の浮気相手から聞き出してでも、理解したいと思っている。そのため実際に浮気相手の一人と個人的な飲み友達にまでなってしまう。相手に自分には足りない何かがあり、妻がそこに惹かれたのではないかと考えている。しかしその友達付き合いから、相手が人間として、あるいは俳優として、自分より特に優れたところを見出すことができず、いつしかその付き合いすらやめてしまい、俳優としての自分の外面の殻に引きこもってしまう。
もちろん、その飲み友達(浮気相手)が言うとおり、「どれだけ理解しあっているはずの相手であれ、どれだけ愛している相手であれ、他人の心をそっくり覗き込むなんて、それはできない相談」だ。しかし主人公はそれを強く求めている。
そのような姿勢は時として相手を息苦しくさせる。なぜなら人は誰しも、誰の前でも多かれ少なかれ演技しており、全てを相手にさらけ出すことなど決してありえないからだ。例えば、一連のストーリーは主人公から彼の雇われ運転手への打ち明け話として語られるが、心に抱えた秘密をさらけ出したからといって主人公と運転手が親しくなるわけではない。どれだけ深く他人の心をのぞき見たからといって、そのことが他人との関係を完全なものにしてくれるわけではないのだ。そこを履き違えると、自分だけでなく相手をも苦しめることになる。例えば夫婦の関係にしても、夫が求めているものと妻が求めているものは少しずつ異なっているはずなのだ。
もしかしたら主人公の妻は、主人公が自分に求めている、そのような「全てを分かり合った関係」を演じ続けることが息苦しくなって、主人公に対する秘密として他の男性と関係を持つことで、演技者としての自分を保とうとしていたのではないかとも思う。一時逃避、あるいはガス抜きのようなルーチンワークとして。
ところで、同じようなことが、「羊をめぐる冒険」の冒頭でも語られていたことを思い出した。
彼女が消えてしまったのは、ある意味では仕方のない出来事であるような気がした。すでに起ってしまったことは起ってしまったことなのだ。我々がこの四年間どれだけうまくやってきたとしても、それはもうたいした問題ではなくなっていた。はぎとられてしまったアルバムと同じことだ。
それと同じように、彼女が僕の友人と長いあいだ定期的に寝ていて、ある日彼のところに転がり込んでしまったとしても、それもやはりたいした問題ではなかった。そういうことは十分起り得ることであり、そしてしばしば現実に起ることであって、彼女がそうなってしまったとしても、何かしら特別なことが起ったという風には僕にはどうしても思えなかった。結局のところ、それは彼女自身の問題なのだ。
(中略)
彼女にとって、僕はすでに失われた人間だった。たとえ彼女が僕をまだいくらか愛していたとしても、それはまた別の問題だった。我々はお互いの役割にあまりにも慣れすぎていたのだ。僕が彼女に与えることができるものはもう何もなかった。彼女にはそれが本能的にわかっていたし、僕には経験的にわかっていた。どちらにしても救いはなかった。
こうやって並べてみると、むしろ「羊をめぐる冒険」の主人公のほうが達観しているようにも見えるのは、僕だけではないのではないか。もちろん、達観したからといって救われるわけではないのだけれど。