選挙活動はムダの極み

今度の週末に市会議員選挙があるので、候補の皆さんが毎朝駅前で挨拶に立ったり、夜まで選挙カーで走り回ったりしていて大変ご苦労さまです。
でもあの選挙カーとかノボリとか、公費で賄われていると聞いた。
正直に言って選挙カーはうるさいし、ノボリとか異様な雰囲気だし、知り合いの候補が複数いると朝に駅前で二人同時に出会ったりしないかとか気になってしまう。
なんでこっちが気を遣わないといけないのか。
あと、挨拶にしろ選挙カーにしろ、候補者の名前を連呼しているだけで、政策とかなんの説明もない。というかそんな短時間でできるわけもない。
選挙に必要なのは政策や実績のアピールと、あとは人となりが分かれば十分なので、そこに予算を重点配分すればいいと思う。
具体的には選挙公報と、あと全候補に均等に時間配分した演説会だけにしたらどうか。
選挙公報は候補一人当たりA3片面にいっぱい書けばいい。政策と自己アピールと議会への出席率と質問の回数と時間の実績。あと条例の提案件数とか。
それ以外は選挙活動を一切禁止したらいいと思う。
そしたら選挙期間中、候補も住民も静かに心穏やかに過ごせるし、アルバイト動員しなくて済むし、投票に必要な情報は全て得られるし、選挙に費やす公費もぐっとお安く済むはず。

この話にはなんのオチもないけど、そこの議員候補さん、当選したら是非、議会でそういう提案をしてほしい。

あと、なんで今回は二回に分けて選挙したのかなあ。費用的にすごくもったいないことだと思う。一回でまとめて全部やればいいのに。県議会議員と市議会議員を取り違えるほど俺たちバカじゃないし、取り違えたら無効票でええやん。

本当にもったいない。ムダの極みだと思います。

洗濯の効率化

洗濯において効率が問題になるのは、

  • 洗濯物のバッチ分類
  • 干す作業
  • 乾かす時間
  • 畳む作業
  • 所定の保管場所へ格納する作業

なのであって、これらの最適化が重要。

逆にいうと、取り込む手間ははっきり言ってどうでもいい。せいぜい、畳む場所と干す場所を近くして、取り込む手が一杯になったら畳む場所へ投げられると楽だよね、くらいか。

以下、個別に論じていく。


洗濯物のバッチ分類

最初からオカルトなのだが、生理的にどうしても分けたい洗濯物というのがある人がいる。例えば下着とタオルを別にしたいとか、子供の野球のユニフォームが吐き気を催すほど泥だらけなのでこれだけ他のものと分けて特注の洗剤を使いたいとか。

解決方法としては、先に洗いたい物を洗濯槽に、後回しにしたいものは洗濯カゴに入れる、という風に、ストックする時点で分類しておくことが大切。

全部洗濯カゴに入れておいて後で分類しようと考えると、どうしても汚れ物を後から触るイヤーンなひと時を過ごすことになり、分類が面倒になってしまう。一つの洗濯物を分類するコストは知れているので、洗濯物を脱ぐとかストックするとか、分類よりもコストの高い、しかもまとめてできない作業とくっつけて分類し、結果的に分類するというめんどくさい時間帯を散逸させてしまうのがコツ。

洗濯物を干す作業

干す作業は結構時間がかかるし、ベランダに出るのが冬は寒いし夏は暑いしたまらん。なるべくささっと干したい。

そのためには洗濯機から洗濯物を取り出すときになるべく分類してシワもあらかじめ伸ばしておくことが肝要。

シワを伸ばすといってもこの段階ではパンパンってして畳んで重ねるだけだが。

取り出す順序にも配慮が必要。いちばん手前に干すものがいちばん先に干せるように、いちばん最後に取り出す。さらに言うと、小さなもの、靴下とか帽子とか、そういうものは最後に残ってしまい、あーまだあったよー、となりがちなので、むしろ積極的に後回しに残しておき、絡まりがちな大物から出す。

うちの場合、ベランダへの通路から遠い、つまりベランダの奥の方から

  • バスタオル
  • シャツ・上着
  • 長ズボン
  • タオル・下着・短ズボン
  • 靴下
という順序で干すので、この順序で洗濯機から取り出し、ベランダの手前側から(靴下から)干していくようにしている。

同じ種類の物をまとめて取り出すことで、取り出したその場で畳んでも重ねやすく、洗濯カゴの中で荷崩れが発生しにくくなる。

畳みかた

畳むときに大事なのは、早い畳みかたではなく、収納場所から取り出しやすい畳みかた。つまり、畳みかたと収納方法はセットで考えることが肝要。

よく、タオルを上下に重ねて収納する人がいるが、あれは代表的な悪手。重ねるときも、取り出すときも上から処理しがちになり、下の方のタオルは使用頻度が下がる。タオルって型崩れしやすいので、だんだん下の方がみっともない感じになってしまう。せっかく洗ったのに湿って潰れて、ますます使うのがイヤになる。

100円ショップでプラスティックの長方形のカゴを買ってきて、タオルを横に並べて収納し、カゴごと棚にしまうのがよい。こうすれば、洗ったタオルを畳んで奥へしまい、手前のタオルから使うことができ、ストレスなくローテーションできる。

靴下や下着も同様に、ローテーションできる収納方法でよい。シャツや上着などタンスに仕舞うものも、できるだけ縦に並べて収納すると、全体が見えるし、着たいものだけが取り出せる。これが基本。あとは応用として、靴下は口を袋おりにして一足ごとにまとめるとか、パンストは結んだ方が取り出しやすいとか、Tシャツの丸め方とかあるが、この辺は収納場所によってコストとメリットの兼ね合いがあるので省略。

洗濯物を畳むときは、持っていく場所ごとにまとめるようにする。また、畳んだ後で積むときは大物が下、小物が上、となるように積むと安定して運びやすい。そこで、畳んだときに、まずは持っていく場所と物の大小でグループ分けした小さな山をたくさん作りながら畳んでいき、最後に持っていく場所ごとにグループを統合し、大物から順に積み上げた大きな山を築くようにする。

まとめ

このように文章にすると面倒くさく見えるが、毎日やることなので慣れの問題。むしろ徹底して効率化することで、何も生み出さない、基本的には衣類やリネンを疲弊させていくだけの洗濯という不毛な作業の時間を短くして、もっと楽しいことに使える時間を1分1秒でも長く作り出すことに意味がある。

もっと効率化したいのだが大体上記のような形でプラトーに到達しており思考停止気味なので、何かもっと効率化できるところがあれば教えてください。

キャプテンの決め方

僕自身の所属した部活とか、子供のスポーツで見てきたキャプテンの決め方って、実は結構いろいろあって、

  • 互選(誰がキャプテンになるのがいいか、話し合って決める)
  • 立候補して投票
  • 責任者(監督とか部の顧問とか、要は大人)が指名
  • 先輩が後継者を指名(もうすぐ卒業する学年が、次のキャプテンを決めて、お前がやれと言う)
  • 先輩が後継者を選んで、責任者が承認(実際には責任者がよいと思う名前が出てくるまで何度も選び直させる)

などなど。どれがいいとか悪いとかではなく、まあよくもこんなにいろんなやり方があるものだなあと思う。

でも、実は「キャプテンとは何に責任を持つ立場なのか」ということをきちんと定義し、メンバーが共有した状態でキャプテンを決めたことはないような気がする。全ての決定プロセスをつぶさに見たわけではない(というか、ほとんど知らないうちに決まっていたり、結果だけ知らされることが多かった)ので、実はそういう手続きを踏んだ例もあるのかもしれないけど。

キャプテンの役割って、一般的なゆるい定義としては、以下のようなものではないかと思う。

  • キャプテンはみんなに指示をして、みんなは基本的にそれに従う。
  • 異議があればキャプテンに言う。
  • キャプテンはみんなの意見を聞いて、方針を決定する。
  • チーム全体を統率して円滑に運営する責任は第一義的にはキャプテンが負うが、キャプテンの指示にみんなが従うことが前提。
  • チームとしてのパフォーマンスの結果について、キャプテンのせいにはしない。

…もうお気づきかと思うが、すでに「いやそうじゃなくて…」という部分が、上の定義には混じってきているのではないだろうか。

キャプテンの役割・権限・責任って、実は結構重要なのに、ちゃんと定義してみんなで合意している例はあまりないのではないだろうか。

たぶん、世の中にはキャプテンの役割・権限・責任についてルールを決めて、ちゃんと合意しているチームもあるのだと思う。でも大部分は、そのへんあいまいにしたまま、漠然とキャプテンという役割を誰かに任せているのではないか。

それってそのキャプテンになった人にとって、あるいはチームにとって、幸せな状態なのだろうか。キャプテンになった人が、自分が思っていた以上の責任を負わされたり、チームがキャプテンに期待している役割をキャプテンが実行してくれなかったりするような、不幸な状態になっているチームも、あるのではないだろうか。ちゃんと合意してから、双方納得してキャプテンを選んだほうがよいのではないだろうか。

…というようなことを、

http://ameblo.jp/tsutomu-nishino/entry-11814889753.html

あたりを読んで思った。

 

こんなにはっきり覚えていることはとても珍しい

夢を見た。

墜落しそうなジェット飛行機に乗って湖の上を飛んでいる。
湖岸の山肌にぶつかりそうー!と思っていると、そこにはなぜか冬山装備の自衛隊員たちがいて、飛行機に気づいて逃げようとしている。
急斜面を駆け上がって逃げていく人(なんで湖岸の方へ逃げないの?)、わずかな窪みに体を投げ出して伏せる人、そういうのをなぜか間近に見ているので、もう落ちるんだなーと思う。
しかし飛行機は急にエンジンの回転数を上げてそこを通り過ぎ、隊員たちは難を逃れるわけだが飛行機は機首を上げて山を越えたところで完全にバランスを失う。
飛行機はキリモミ状態になってぐるぐる回り、僕と隣の人は、あーぐるぐる回ってるねー、もう完全にダメだねー、と言いながら天井を見上げている。ぐるぐる。気がつくと僕はなぜかビデオカメラでその様子を撮影している。
ビデオカメラでキリモミ状態とかわからんでしょ、自分も回ってるのに、と思ったところで意識が途切れて、次の瞬間、どこだかわからない小部屋の中で目を覚ました。
そうか、意識が途切れると次の瞬間はもう意識が戻ってるんだ、というかあれ、俺生きてる、ここはどこ?と思う。飛行機にこんな広いスペースあったっけ?
隣の人と二人でそのスペースにいて、隣の人は完全に気を失っていて生死も定かではないのだけど、ほとんどそのことは気にかけず、やばい、航空燃料に火がついたら死んでしまう、逃げよう!と思って、運よく明るい方に横長のハッチのようなものがあるのを見つけて押し開けるとそこがちょうど地面になっていて(なんというご都合主義!)外に出られる!という時に
「あ、ビデオカメラ持っていかないと」
と思って、明らかにガス臭い中をいったん部屋に戻り、転がっていたビデオカメラをつかんで、でも隣の人は放置して自分だけ外に出ると、外は何か研究施設のようなベージュの建物の隣で、何で俺こんなとこにいるの?飛行機はどうなったの?

というところで目が覚めた。なんだそれ。

ドライブ・マイ・カー

 

文藝春秋 2013年 12月号 [雑誌]

文藝春秋 2013年 12月号 [雑誌]

 

 話の上面は「妻が生前に浮気していた理由が理解できずに引きずって苦しむ男」についての話だが、本題はそこではなく、主人公やその妻や友人(妻の浮気相手)の共通の職業である俳優に引っかけて、「人間は誰と接するときでも少なからず演技しており、全てをさらけ出して理解しあうことなどできない」ということについて書かれている。

主人公は妻が生前何人もの男と寝ていたことの理由が理解できないでいる。妻は長年連れ添った伴侶であり、自分が妻のことを最も理解していたし、全てを理解していたと信じたいし、分からないことがあれば今からでも、例え妻の浮気相手から聞き出してでも、理解したいと思っている。そのため実際に浮気相手の一人と個人的な飲み友達にまでなってしまう。相手に自分には足りない何かがあり、妻がそこに惹かれたのではないかと考えている。しかしその友達付き合いから、相手が人間として、あるいは俳優として、自分より特に優れたところを見出すことができず、いつしかその付き合いすらやめてしまい、俳優としての自分の外面の殻に引きこもってしまう。

もちろん、その飲み友達(浮気相手)が言うとおり、「どれだけ理解しあっているはずの相手であれ、どれだけ愛している相手であれ、他人の心をそっくり覗き込むなんて、それはできない相談」だ。しかし主人公はそれを強く求めている。

そのような姿勢は時として相手を息苦しくさせる。なぜなら人は誰しも、誰の前でも多かれ少なかれ演技しており、全てを相手にさらけ出すことなど決してありえないからだ。例えば、一連のストーリーは主人公から彼の雇われ運転手への打ち明け話として語られるが、心に抱えた秘密をさらけ出したからといって主人公と運転手が親しくなるわけではない。どれだけ深く他人の心をのぞき見たからといって、そのことが他人との関係を完全なものにしてくれるわけではないのだ。そこを履き違えると、自分だけでなく相手をも苦しめることになる。例えば夫婦の関係にしても、夫が求めているものと妻が求めているものは少しずつ異なっているはずなのだ。

もしかしたら主人公の妻は、主人公が自分に求めている、そのような「全てを分かり合った関係」を演じ続けることが息苦しくなって、主人公に対する秘密として他の男性と関係を持つことで、演技者としての自分を保とうとしていたのではないかとも思う。一時逃避、あるいはガス抜きのようなルーチンワークとして。

ところで、同じようなことが、「羊をめぐる冒険」の冒頭でも語られていたことを思い出した。

彼女が消えてしまったのは、ある意味では仕方のない出来事であるような気がした。すでに起ってしまったことは起ってしまったことなのだ。我々がこの四年間どれだけうまくやってきたとしても、それはもうたいした問題ではなくなっていた。はぎとられてしまったアルバムと同じことだ。

それと同じように、彼女が僕の友人と長いあいだ定期的に寝ていて、ある日彼のところに転がり込んでしまったとしても、それもやはりたいした問題ではなかった。そういうことは十分起り得ることであり、そしてしばしば現実に起ることであって、彼女がそうなってしまったとしても、何かしら特別なことが起ったという風には僕にはどうしても思えなかった。結局のところ、それは彼女自身の問題なのだ。

(中略)

彼女にとって、僕はすでに失われた人間だった。たとえ彼女が僕をまだいくらか愛していたとしても、それはまた別の問題だった。我々はお互いの役割にあまりにも慣れすぎていたのだ。僕が彼女に与えることができるものはもう何もなかった。彼女にはそれが本能的にわかっていたし、僕には経験的にわかっていた。どちらにしても救いはなかった。 

 こうやって並べてみると、むしろ「羊をめぐる冒険」の主人公のほうが達観しているようにも見えるのは、僕だけではないのではないか。もちろん、達観したからといって救われるわけではないのだけれど。

Thank you in advance

依頼のメールを書いていると、英語のThank you in advance.と同じニュアンスの語彙が欲しくなることがあるのだが、日本語で該当するものが思いつかなくていつもモジモジする。

こういう依頼ができる相手としてあなたがいることにとても感謝しているから、引き受けてくれる前からもう感謝を伝えたい、という長ーい能書きはメールとして冗長すぎる。

だいたい日本語はこういう、相手に向けた自分の気持ちをストレートに伝える短い言葉がない。俺が知らないだけかも知らんが。

英語の手紙はそういう慣用句に満ちており、まあ形式的といえばそうなのだけど、読んでいる自分と書いた相手がとても近しい感じがする。

Dear に始まり、
glad とか appreciate とかちりばめて、
結びは Yours とかSincerely とか、件の
Thank you in advance とか。

読ませる人に書き手の気持ちが向いているということがビシバシ伝わってくるのである。
来たわコレ、最優先でやらないといかんねー、いやーいつも無茶言うなこいつ困るわー、とニヤニヤしながら席を立つ自分が想像できる。

これが日本語だと、
おつかれさまです とか お世話になっております とかで始まり、
していただければ とへりくだっておいて、
よろしくお願い申し上げます。 で締める。

あーめんどくせー断りたいなー、まあいま忙しいし明日やるかー、一応承りましたってメールだけ書いとくかー。

なんだこの違いは!
日本人の手紙はへりくだりすぎてもはや嫌味であるということが、こうやって比べるとよーく分かる。

手紙というものに対する文化的スタンスの違いと言えばいいのでしょうか。

かくして毎日なんとか自分の感謝を相手に伝えたいとモジモジしながら、今日も
お世話になっております。
と日本語でメールを書き始めるのだった。いっそ英語で書いてやろうかと。いやー困るわー。

言の葉の庭

言の葉の庭

六本木で観た。

やりたいこととやってることの不一致に苦しむ少年と、やりたいことから弾き出されて苦しむ女性が実は同じ(以下ネタバレ

若さゆえのストレートな感情に人は傷つきもし、癒されもする。大人だって、表に出さなくなってしまっただけで、奥のほうにはストレートな感情を抱えているのだ。

ストーリーはまあ多少の伏線はありつつも無駄なくエンディングに向けて一直線で、上映時間もすごく短い。46分。

どちらかというとストーリーよりは雨の描写にこれでもかというくらい手間がかかっていて、最初はアニメの雨と思って観ているのだけどいつの間にか100%本物の雨に見えてきて違和感なくて恐ろしい。夕立の場面が秀逸。雨の描写で力尽きて46分なんじゃないかと思うくらい。

雨を描いたアニメとしては世界最高峰ではないかと。そんなもんで最高峰極めてどうするのかとは思うが。

途中で女性の身分が唐突に明かされるのだが、そう言われてみれば途中にたくさんヒントがあったのだった。アレとか、アレとか。

しかし伊藤先生はひどいやつだな。ベランダで電話すんなよ。

最後にどうでもいいけど「だれかのまなざし」の途中で横のカップルがボソボソしゃべってて不愉快だった。映画館でしゃべる必要のないことをしゃべるのはやめましょう。あなたはよくても俺はよくない。